触られたがりの硝子細工

 同窓会での再会以降、苗字から連絡が来ることが増えた。
 内容は、『今年の青道のピッチャーすごいね』とか『甲子園始まったね』とか、大抵が野球のことだった。俺から連絡をすることはまずないけど、それは彼女とのやりとりがうっとしいわけではなくて、どこまで踏み込んでいいか迷っているだけ。一度、話の流れで『今何してんの?』と送った時は、『仕事で富山県!』と黒部ダムの写真が送られてきたので、そのくらいは聞いてもいいみたいだけれど。
 そうやってちまちまとやりとりをしている間にも、苗字の知名度と人気はどんどんあがっていて、大学では「苗字ちゃん最高」なんてスマートフォンの待ち受け画面を彼女の写真にする者も現れた。

「高校、青道だっけ」
「そうそう。弓道部。高校時代の写真も美しいわ」
「あれ、青道出身のやつ、確か野球部にいなかったっけ」

 そんな会話が聞こえるたびに、俺は焦ってその場を逃げ出す。ここ最近は、入学してしばらくすると女子から言われまくった「御幸くんの連絡先教えて」の苗字バージョンがあきらかに増加した。同じ野球部だった御幸と違って、「接点ねえから知らねえ」と躱すことができたのは不幸中の幸い。でもだからこそ、俺が苗字と頻繁に連絡を取り合っていることをバレるわけにはいかなかった。

『そろそろ大学野球のオープン戦だっけ』『倉持くん、試合でる?』
『でる予定』
『いつ?』
『8月24日の土曜日』
『そっか!』『がんばれ!』

 届いた連絡に返事をしたら、苗字からはデフォルメ化されたチーターが走っているスタンプが送られてきた。同窓会が終わってすぐのやりとりの最中、『倉持くんみたいなスタンプみつけた』と彼女が嬉々として送ってきたことを覚えている。『かわいすぎんだろ』と若干否定する姿勢をみせたのだが、彼女はそれ以降も頻繁にこのチータースタンプを使っていた。
 『サンキュ』と短い単語を送りつけたら、すぐに既読はついたものの返事はなかった。まあ、キリいいし、これ以上続ける必要はない。
 程なくして入ったラインの通知は、高校野球を配信するアカウントからのメッセージだった。第4試合開始! とあって、高知県の代表と東東京地区の代表同士の試合が始まったらしい。古豪VS都立の星、なんて謳い文句が躍っている。
 ふと、甲子園での試合を思い出す。
 高校3年生、最後の夏。茹だるような暑さの中でのプレイ。心臓を揺らすみたいな歓声。額から落ちた汗のうっとうしさとか、巻き上げた土の匂いとか。それらすべてが、色褪せない記憶だった。
 そういえば、あの年、苗字も弓道の全国大会に出場していた。というか、先に予選が終わったのは弓道部の方で、たしか6月の上旬には全国大会の出場が決定していた。「祝! 弓道部 2年連続全国大会出場!」と垂れ幕が掲げられてからおよそ一か月後、その隣に「祝! 青道高校野球部 甲子園出場!」と並んだときは、無性に嬉しくなったものだ。
 弓道部の全国大会は8月上旬、甲子園とほとんど同じタイミングで行われる。甲子園の出場が決定してすぐ、苗字は「わたしも行きたかったぁ」とちょっとだけ残念そうに呟いていた。彼女のやわらかそうな頬が差し込む夕陽に染め上げられていた気がするから、たぶん、部活後の会話。俺は彼女の綺麗さに息を呑んで、それから、何を言ったっけ。なんかけっこうなことを言った気がするんだけど、うまく思い出せない。ただ、「うん、絶対!」と弾けるような笑顔をみせた彼女のことだけは、鮮やかな色で蘇る。



 8月24日、土曜日。
 オープン戦は、俺が通う大学の野球部専用グラウンドで行われた。ちゃんとしたスタンド席があるわけでもないが、コアなファンはちらほらと観戦に来ていて、フェンスの向こうで観戦客同士、なんだかんだと話している。
 ショートでスタメン出場を果たした俺は、打撃でも3安打1打点、盗塁は2つと、かなりの結果を残した。「調子いーな」と声をかけてくれたのは、この試合唯一のホームランを打ったファーストの先輩で、「正直手ごたえアリでした」「二打席目、あれ狙ってたのかよ。スライダーにタイミングばっちし」なんて野球談議に花を咲かせていたら。

「なあ、なんか若い女の子来てる」
「すげー。珍し、こんなオープン戦に」
「つーか、もしかしなくても可愛い?」
「分かる。雰囲気いーよな」

 周囲がざわつきはじめて、なんとはなしにグラウンドの向こう、観戦者がいるほうへと視線を向けて。俺は、その女と、ばっちりと目が合ってしまった。向こうも気づいたのだろう、「倉持くん」なんて手を、振ろうと――。

「バッ、なんっ、おま、なに来て……!」

 ――あの時のお前、盗塁するより足速かったんじゃねえ? とは、後にチームメイトが俺を揶揄う際の鉄板になるのだが。まさかこのタイミングでそんな揶揄いをする奴がいるはずもなく、誰もがポカンとする中で、俺は彼女――苗字と向き合い、肩で息をしながら「何してんだ……!」と繰り返す。
 フェンス越しの彼女は「応援に来てた」と微笑んで、それにますます背筋が凍った。やめろ、その顔。一般人だというには無理がある。綺麗すぎてバレる。絶対、バレる。
 苗字は帽子を目深に被っていて、マスクをしていて、普段はしない眼鏡までかけていた。顔の大部分はよく見えないし、エクステでもしているのかいつもより髪が長い。それでも、駄目だ。なんか、オーラがあるというか、雰囲気が普通とはちがう。実際、遠目に見ていたチームメイトが「かわいいんじゃね?」なんてこそこそ言い合っていたくらいだし。
 チームメイトはまだポカンとしたままだ。たぶん、顔もはっきり見えていないはず。今ならまだ間に合う。

「いいから早く帰れって……!」

 小声で懸命に言うのに、彼女は「あのね、ご飯でもどうかなって」なんて平然と言う。「今はそんな話……!」思わず叫びそうになったら、観戦客のひとりだった中年の男がちらりとこちらを見るので、冷や汗がでる。というか、周りにいた奴らは気づいてないのかよ。

「分かった、行く。行くから、今は帰ってくれ……!」
「うん。じゃあ後でラインする」

 ここで「行かねえ」なんて言ったら、苗字がより粘る気がして、それで周囲にバレるなんてことだけは避けたくて、勢いのままに了承する。パァと顔を輝かせると、彼女は素直にその場を去った。相変わらず、ぴんと伸びた背中を見ながら、ほっと一息をついたところで。

「おい、倉持! 誰だ今の、彼女かよ!」
「ヤンキーの見た目して生意気だな、紹介しろ」
「絶対かわいいやつだろ。写真見せろ!」

 ようやく頭が動き始めたらしいチームメイトに散々絡まれる羽目になった。「違いますよ、ただの友だちです!」「あんな可愛い女友達がいるとか、それもムカツク!」「いてててて!」ぐりぐりと頭を押さえつけてくる彼らは、ひとまず彼女が苗字名前という芸能人であることには気づかなかったようだった。野球の知識以外は疎い奴が少なくなかったことも、バレなかった要因のひとつかもしれない。一方で、「なんかどっかで……」なんて首を捻る者もいて、バクバクする心臓は治まる気配がなく。
 (なんで俺のがこんな気にしなきゃなんねーんだよ……!)と、多少の苛立ちを覚えたりもした。

 その日の夜、苗字から電話がかかってきた。開口一番、彼女は「ごめん。あの後大丈夫だった?」としおしおとした声で言ってきて、それだけで「いーよ」と簡単に許してしまうから、我ながらチョロいなあと軽く落ち込んだ。

「行きたいところとか、食べたいものとかある?」

 彼女はそう聞くけれど、俺が知っているような店に二人で食べに行くことはリスクが高すぎる。かといって、苗字が行く芸能人御用達の料理店に行くわけにもいけない。俺の財布が死ぬ。万が一、苗字が奢ることになったりしたら、俺の心が死ぬ。
 「そんな高級なとこ行かない、吉野家とか普通に行くよ」と彼女は笑ったけど、それは一人での話だろう。男と二人きりなんて、それがどんな店であれ炎上確定だ。
 となれば、残された選択肢は――。

「……うち来る?」
「……それもどうなんだよ」
「家、まだバレてないから」
「俺にはバラしていーのかよ」
「いいよ。倉持くんだし」

 踊らされてんなあと思いながらも、結局、俺は苗字の提案に乗ってしまう。
 勢いとはいえ約束しちまったし、一回くらいは、なんて言い訳じみたことをぐるぐると考えながら、彼女から送られた住所を目指した。苗字から頼まれたお酒類が入ったコンビニの袋が、ガサガサと音を立てている。
 マンションのエントランスは当然ながらオートロックだった。事前に聞いていた部屋番号を押せば、すぐに「はい」と声が返ってくる。「俺、倉持」短く告げたら、「うん。すぐ開ける!」とロビーの自動ドアが開いた。「部屋も開けてるからそのまま入って」「分かった」
 高層マンション、というわけではないけれど、セキュリティはしっかりしているし、ロビーもそこそこ広い。俺が住んでいるところとは、比べものにならない家賃なんだろう。
 エレベーターを降りる。外からは玄関が見えないタイプのマンションだ。これなら、部屋に入る瞬間を撮られることもない。
 部屋番号を確認して、ドアノブを回す。暑い中を歩いてきたから、冷気が流れ込んできて気持ちがいい。「おーい」と声をかけてすぐ、部屋の奥から苗字が現れた。透けた袖の部分がふわりと広がった、橙色のワンピースだった。

「わざわざごめん。来てくれてありがとう」
「や、別に。これ、頼まれモン」
「ありがと! これ、新発売の。飲んでみたかったんだぁ」

 ビニール袋から缶チューハイを取り出した苗字が、口元を緩めた。彼女の姿は、どこを切り取っても映画やドラマのワンシーンみたいだ。
 部屋は1LDKで、一人暮らしにしてはかなり広い。テレビ前のソファがやたら印象的だった。奥の閉められて部屋は、おそらく寝室だろう。
 LDKの真ん中に置かれた、折りたたみ式であろう机の上に、おつまみやお菓子が用意されている。その内のいくつか、例えば、たたききゅうりとか、アスパラのベーコン巻きとか、長芋の揚げ物は、もしかして。

「これ、苗字が作ったのかよ」
「うん。大学入ってから、自炊するようになったから」
「すげーな、忙しいだろ」
「食事は大事だし。……あ、そうだ、お酒いくらした? お金払う」
「いーよ、こんくらい」
「でも」
「聞こえねー、聞こえねー」

 口をへの字に曲げてそう言えば、苗字は困ったように笑って「じゃあ、ありがとう」とすとんと座った。「倉持くんも」と手招きした彼女の正面に俺も座る。

「どれ飲む?」
「とりあえずビール」
「じゃあ、はい」

 よく冷えた缶ビールを受け取る。苗字は早速、俺が買ってきた缶チューハイを手にしていて、プルタブを捻り開けると「じゃあ、おつかれさまです」とこちらに掲げた。「おー、おつかれ」同じように返しながら缶同士をぶつけて、一口流し込む。

「んー……。まあまあ……」

 零す彼女は、相変わらずお酒が得意じゃないようだ。「無理すんなよ」と言ったら、「倉持くんこそ」と悪戯に唇の端を持ち上げる。
 それを横目に、(やっぱヤベーよな、この状況)なんて思って、今更ながらに緊張してきた。今や有名人の御幸と飲むことはたまにあるけれど、それとは訳が違う。なんていったって、苗字は女だ。それも、めちゃくちゃ綺麗な。

「こないだの試合、活躍すごかったね」
「あれ、いつから見てたんだよ」
「五回の表から」
「マジかよ、全然気づかなかったわ。つーか周りの奴らにバレてねぇの」
「全然声もかけられなかったよ。意外とバレないんだって、こういうの。『まさかこんな所にいないよな』が勝つから」
「そういうもん……?」

 怪しく思いながら、苗字を見つめる。二杯目の缶を開けたところだった。ペースが速い気がして、少し心配になる。顔色は、まだ大丈夫そうだけど。

「野球してるの、やっぱいいね。甲子園思い出した」

 ふと零された言葉に「そーかよ」と返して、はたと思い出した。
 そうだ、そうだった。甲子園の準決勝に、苗字は来たんだった。スタンドでメガホンを振り回していた姿が普段の凛とした彼女と似つかなくてやたら面白かったのに、どうして忘れていたんだろう。ああ、それから。この間は思い出せなかった、甲子園出場を決めた後の会話も、つられて蘇る。自分の大会と日程が被っていて悔しそうにした苗字に、高校生の俺は、「……8月の下旬なら見に来れんだろ。優勝すっから」なんて宣言したんだった。今にして思えば、苗字も大会で疲れてるんだから休ませろよ、とか、引退とか色々あって忙しいだろ、とか、そんな反省点がぼろぼろ出てくるけれど。彼女は、「絶対。絶対、見に行く」と心底嬉しそうに笑ってくれて、そして約束通り、疲れをひとつも見せない顔で応援スタンドから声を張り上げていた。

(懐かしーな……)

 ビールを呷って、苗字が作った料理をつまんでいたら、ふと横に影が差した。
 苗字がなぜか移動していて、俺の隣に腰を下ろす。「写真もいろいろ撮ったよ」そう言った彼女が、見て、というみたいにスマートフォンのロックを解除した。
 写真フォルダの中に、大量の試合の写真があった。

「ヒャハ、多すぎだろ」

 思わず笑いながら覗き込む。俺だけじゃなくて、他の選手の写真やファインプレーの瞬間の動画もあった。
 ――野球そのものが好きというのも、あながち間違いじゃないんだろうな。
 そんなことを思いながら、画面をスクロールさせる。

「お。このホームランの動画、先輩にあげたら喜ぶかも」
「あは、じゃあ送る」
「おー、頼むわ」

 気楽な会話のなか、ふと顔をあげる、瞬間。

「……ッ」

 息を呑んだのは多分、俺も、苗字も。
 いつのまにか近づいていた距離は、あと数センチで額ががくっつきそうなほどで、動揺に肩がびくりと揺れた。けれど不思議なことに、お互いに視線は逸らせない。苗字の頬がほんのりと紅潮しているのはお酒のせいなのか、それとも、この距離のせいなのか。
 ふ、と苗字の体が傾いた。かすかな甘い香りがふわりと漂う。

(う、わ。コレ――)

 やばくね、と思った時には、引き寄せられるみたいに唇が重なっていた。

「……っ、は」
「……苗字、酔ってる?」
「……ううん。倉持くんこそ」
「俺まだ一杯目だぜ。酔うかよ」
「……うん」

 吐息が絡まるほどの距離で、小さな言葉を交わし合う。
 苗字の体を引き寄せて、額を軽くあてがった。俺よりもだいぶ熱い。やっぱ酔ってんじゃねえか、と少し不安だ。
 今度は苗字から分かりやすく近づいた。再度、唇が触れ合う。どちらからともなく口を薄く開けて、舌を絡めた。柔らかいし、熱いし、なんかもう溶けそうだ。やたら上手い気がして、撮影でこーゆーのもやってんのかと思ってモヤつき、馬鹿じゃねえのと自嘲する。何に嫉妬してんだよ、彼氏でもないくせに。
 苗字の体の力が抜けるのが分かった。「……倉持」キスの合間に名前を呼ばれてドキリとする。高校時代と同じ呼び捨てなのが、妙に興奮した。
 潤んだ瞳で見つめる彼女を堪らず押し倒した。覆いかぶさるようにして口づけながら、背中のファスナーを下ろす。緩んだ衣服の隙間に指を滑り込ませる。苗字からの抵抗はなかった。それどころか、

「ぁ、それ……、きもちぃ……っ」

 胸元に触れた時に零された言葉があまりにも情欲をそそり、ぞくりと背中が粟立つ。なんだよ、今の声。煽ってんのか、かわいすぎんだろ。

(……やっべ、ほんっと……。あー……、抱きてぇ……)

 リアルな欲望が渦巻く。白い肌を全部暴いてやりたい。もっと蕩けた表情で俺を見ればいい。甘い声で俺の名前を呼んで、縋る彼女の一番奥まで入り込めたら、どんなに。
 そう思ってふと、教室の中で、隣の席で笑っていた苗字のことを思い出した。淡くて、青い、春の記憶。

「……っ」

 ふつふつと沸き上がった欲を、拳を握りしめて、唇を噛んで、なんとか抑え込む。落ち着け、馬鹿なことを考えるな、苗字と俺は、そんな関係じゃねぇだろ。酒を飲んだ勢いで抱くとか、誠実さの欠片もない行動はナシだ。そんなことをしたら、高校時代のあの思い出までくすんでしまう。
 「悪りぃ……」ぽそりと零して体を離した俺を、苗字は熱に浮かされた瞳で不思議そうに見つめてくる。

「こんなん、駄目だろ。やっぱり」
「……駄目かな」
「……」
「……倉持」
「んだよ……」

 気まずい空気が流れる。ちくしょう、最初のキスの時点で失敗だった。あれを冷静に躱すことができてたら、なんて、後悔してももう遅い。

「今度、撮影でそういうシーンがあって。裸、見られるし触られるの、それがはじめてになっちゃうから。……それより先に、倉持に触られたい」
「……ッ、お前さぁ……!」

 ふざけんな、こっちは相当我慢してるってのに、とんだ殺し文句だ。
 というか、裸見られて触られるって、どんだけ際どいシーンだよ。しかも、はじめてって……いや、ちょっと待て、はじめて!?

「は、え、なに。はじめて?」

 こくり、と苗字が頷く。その仕草にまた心臓を撃ち抜かれそうになるし、撮影で知らない男に暴かれるくらいなら、なんて誘惑に負けそうになるけれど。

「だから、倉持」
「うぉ!? 待て待て待てって!」

 ワンピースの胸元を大きく広げるような仕草をした彼女を慌てて制止する。不服そうな顔をしても駄目だ、これ以上俺の理性を壊すようなことをしてくれるな。

「……どうしても駄目?」
「ぜってぇ駄目」
「見るだけでも?」
「……見るだけで終われるわけねぇだろ……」

 勘弁してくれ、というように溜息をついたら、苗字はこちらを見上げたままに「いいよ」と呟いた。

「は?」
「いいよ、倉持なら」

 その声音が思いのほか真剣だったからたじろいでしまったけれど、ここで流されるわけにはいかない。

「いーわけねぇだろ」
「……」
「……はじめてならなおさら、大事にしろよ」

 やべえ、今のキモかったか?
 ぐるぐる考える俺を見つめた苗字の目が、ぱちりと大きく瞬いた。次いで、形の良い唇の端がかすかに歪む。笑っているようにも泣いてるようにも見える不思議な表情で、彼女はたった一言、「倉持、やっぱり優しいね」と呟いた。
 ころん、と、丸まるように体を横向きにした彼女に、「オイ、ちゃんと服着ろ」と声をかける。返事はなかった。無視すんな、と続けようとして、なんとなく嫌な予感があった。

「苗字」

 机の影に隠れている彼女の顔を覗き込み、頬が引き攣る。
 ぱっちりとした目は、ふたつともしっかりと閉じられていた。肩が小さく上下している。

(……寝てんじゃねぇか! つーかやっぱり酔ってたんだろコレ!)

 叫びたい気持ちをグッと堪え、「あ〜〜……」なんて低く唸りながら頭を掻きむしる。
 とりあえず、流されて抱いたりしなくてよかった。朝起きた苗字が後悔で泣いたりしたら死にたくなったに違いない。
 カーペットが敷いてあるとはいえ、こんなところで寝ていたら体が痛くなるだろう。「苗字」と何度か声をかけるも、彼女が目を覚ます気配はなかった。仕方なく、彼女のはだけた服を直してから、その体を持ち上げる。軽すぎなくてなぜか安心した。
 申し訳なく思いながらも閉まっていた扉を開ける。予想通り寝室だった。掃除は行き届いている。
 シングルベッドに彼女の体を下ろす。閉め切った部屋はクーラーが効いていなくて少し暑い。リモコンの電源をつけたら、既にタイマーがセットされていたので、そのままにして、ベッドの足元に畳まれていた薄い掛け布団を引き上げた。
 エントランスがオートロックとはいえ、さすがに部屋の鍵を開けたままで帰るわけにはいかなかった。思案の末、口が堅くて、余計なことは聞いてこない先輩に、代わりに外泊届を出してもらえないか連絡をとる。すぐに『オッケー』『提出したぞ』と返事が来て、ほっとした。
 リビングのソファに体を沈めて目を閉じる。部屋中苗字の匂いに包まれていて、きっと、眠れないけれど。

 翌朝、苗字は起きるや否や、ソファの前で土下座した。丁寧に揃えられた指先や、ぴんとした背中が、何かの礼儀作法みたいな所作だった。
 「ごめんなさい」と繰り返される言葉に、欠伸交じりに「べつに……」とだけ返す。それ以外の対応が思いつかなかった。

「今日も練習? 試合は終わってたっけ?」
「休みだよ。試合もない。体動かそうとは思ってたけど」
「本当にごめん……。体、どっか痛くなってたり」
「大丈夫。ソファあってよかったわ」

 ぐ、と背伸びをしながら返す。彼女は、まだ心配そうにしていた。
 正直俺のことよりもっと心配なことがあるけどな、と思いつつ、気になっていたことを問いかける。

「……苗字さ、撮影の後、酒飲んだりすんの?」
「まぁ、飲むこともあるけど……」
「気をつけたほうがいいぜ。つーか昨日のこと覚えてる?」
「えっとぉ……」

 その声の動揺具合と、「吐いたりはしてないはずですが……」なんて答えから、やっぱり記憶飛んでんな、と悟る。吐いててたまるか。
 「……マジで気をつけろよ、お前」そう念を押したら、苗字は一層うなだれた。何があったかは、聞かれなかったので伝えなかったけれど、たぶん、彼女もある程度は予想がついてる、はず。
 未だ申し訳なさそうにする彼女に見送られながら、部屋を後にする。その扉がしっかりと閉まったのを確認してから、流れで襲ったりしなくてマジでよかった、と、改めて息を吐いた。